フリッパーズギターのライブ

フリッパーズギターのライブ Flipper's Guitarのライブ フリッパーズギターの音源 Flipper's Guitarの音源 とかについて書いてます。

あと、小山田圭吾や小沢健二のライブについても書きます。

あまり事細かに書いているHPが無かったので改めて音源を聞くと同時にレビューあげます。


フリッパーズ・ギター(The Flipper's Guitar、単にFlipper's Guitarとも)は日本のバンド。「パーフリ」「フリッパーズ」という略称で呼ばれる。

入り口

経歴
元々は小山田圭吾(当時は「圭悟」、ボーカル、ギター)と井上由紀子(キーボード)の二人で結成したバンド「Pee Wee 60's」が原型。この二人以外のメンバーが脱退したことを機に「ロリポップ・ソニック(Lollipop Sonic)」へ改名し引き続きライブハウスなどで活動。二人でのライブを数回、行なった後に吉田秀作(ベース)、荒川康伸(ドラムス)が加入。最後に小沢健二(ギター、サイドボーカル)が加わり、五人編成となる。メジャーデビューの際、「フリッパーズ・ギター」と改名した。
1989年、小沢が作詞を担当した全曲英詞の1stアルバム『three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった』でポリスターよりデビュー。その直後に小沢の求める音楽性の違いから荒川、井上、吉田が脱退し、小山田と小沢の2人編成となる。1990年、全曲日本語による2ndアルバム『CAMERA TALK』をリリース。
1991年、3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』をリリースするも、程なくして突然の解散表明。既にチケットの発売が開始されていたライブツアーの直前に解散したため、世間から少なからず批判を受けた(読売新聞では無責任な若者の代表として取り上げられた)。その後二人はそれぞれコーネリアス、小沢健二としてソロ活動を開始した。

フリッパーズ・ギターは、テレビ番組「イカすバンド天国」に見られるバンドブームの影響下にあった当時の日本に詞、曲、ファッション、メディアとの関係等の点からその潮流に一石を投じ、さらには日本の軽音楽の流れに多大なる影響を与えた存在であると認識されている。この観点から日本の軽音楽の流れにおいて「フリッパーズ・ギター以前か以後か」という区切りが用いられている事も多く、フリッパーズ・ギターの登場により、多種多様な音楽が大衆に受け入れられるという土壌の形成を促すに至ると同時に、多くの形式上類似したバンドが登場することとなる。

音楽的傾向
1stアルバムは全曲英語による歌詞という当時としては極めて異例の挑戦的なものだった。2ndアルバムはある程度聴衆に歩み寄り全曲日本語詞となる。1st、2ndアルバムは、アズテック・カメラ、スタイル・カウンシル、ヘアカット100、モノクローム・セットを彷彿とさせるいわゆるネオアコ、ギターポップなどのインディー・ロックに属する楽曲に仕上がっている。しかし、3rdアルバムはトレンドフォロワー的な傾向が強く、ビーチ・ボーイズやプライマル・スクリームなど、当時の流行を積極的に取り入れたものとなっており、また当時のイギリスなどに見られたレイヴ・カルチャー、シューゲイザーの影響も色濃く反映された音に仕上がっている。

 また、ファッション雑誌「Olive」に盛んに広告を出したことでも知られており、彼らのベレー帽やボーダーシャツ、ホワイトジーンズなどの ファッションは当時の若者たちに強い影響を与えた。
 

 

 

 

 

 

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